ふじた歯科 院長紹介

ふじた歯科院長の藤田浩一です。
1960年7月28日生まれ。しし座。血液型はO型です。

南島原市の西有家町で生まれ、昭和62年に長崎大学歯学部を卒業しました。
平成2年7月にふじた歯科を開院して以来、皆様のお口の健康を守り、ひいては身体の健康に役立ちたいと思い、努力してきました。

『歯は健康の窓口』を熱く語り続けています。
すべての患者様がお口の健康を保ち、そして身体も健康でいていただきたい。

そして幸せな笑顔でいていただきたいと願っております。得意分野は、インプラント治療、歯周病治療、予防治療です。スタッフ一同で、皆様を幸せにすることを誓います。

家族は、妻一人と、一男、一女。 趣味は、ゴルフ 最近気になるのが、メタボリック症候群です。(お腹の周囲の脂肪が気になります)

長崎 諫早市 ふじた歯科 院長 藤田浩一 長崎 諫早市 ふじた歯科 院長 藤田浩一

ご挨拶

諫早市の多良見町で開業している藤田でございます。
歯は自分の歯が一番です。

どんなに高額な高級な歯も自分の歯にはかないません。なるべく削らないように、抜かないように、そして一生涯、御自分の歯でかめるように考えています。

もちろん、できるだけ痛くない治療を目指しております。従来の怖い、痛いなどという今までの歯科のいやなイメージを変え、喜んで歯医者にいきたいと思っていただけるように日夜努力しております。

初めての患者様へ

痛い時は勿論、痛くない時でも、歯医者に行くのは腰が重いですね。わかります。そんな貴方様の気持ちをくみとりたいと思っております。
これからのあなた様の人生が歯に翻弄されることが無く、それよりも健康的な口元で、きちんと咬め、 美味しくいただける幸せ、そしてその快適が長続きしますように。

もし私があなた様だったら、こんな治療を受けたい。
ふじた歯科は、そういうことを提案する歯科です。

健康で快適、心豊かな美しい人生を送りましょう。ふじた歯科は提案、提供いたします。

歯科医師としてのモットー

患者様にとって何が一番ベストか考える。
目先のことでなく患者様が心豊かな輝かしい人生を送れるよう考える。

経歴

学歴・職歴

  • 昭和62年 長崎大学歯学部卒業
  • 昭和62年 医療法人「恵歯会」勤務
  • 平成元年 沖縄県 山城歯科医院 院長
  • 平成2年 ふじた歯科 開院
  • 平成23年 医療法人 夢昂会 設立
  • 平成25年 臨床研修指導歯科医(厚生労働省)認定

所属学会

  • 厚生労働省認定卒後臨床研修 指導医
  • 国際口腔インプラント学会(ICOI) 指導医・認定医
  • 日本抗加齢医学会 専門医
  • ACT Japan認定キレーション治療 認定医
  • 日本口腔内科学研究会 歯科オゾン療法認定医
  • 日本口腔インプラント学会会員
  • 日本歯周病学会 会員
  • 日本顎咬合学会 会員
  • 顎顔面口腔育成研究会 会員
  • JAID 会員
  • 九州インプラント研究会 会員
  • 姿勢咬合研究会
  • 床矯正研究会 会員
  • 高濃度ビタミンC点滴療法 施術医

趣味・プライベート紹介

ゴルフ(ハンディ13)

10年位前からハンディー13のまま、楽しいゴルフに徹します。

野球観戦(ホークス命)
長崎 諫早市 ふじた歯科

福岡ソフトバンクホークスの家族そろっての大ファンです。
ホークスのユニホームを着て、年に数回ヤフードームに応援に行きます。
ホークスの応援歌を歌ったあと飛ばすジェット風船は最高です。

写真

やっと1眼レフのデジカメが普及して手軽に使えるようになりました。ニコンのD1(日本で最初の1眼レフのデジカメ)購入から、約7年。今の1眼レフのデジカメは安くて性能が向上してますね。

家庭菜園

病院の裏の隅の猫の額ほどの畑=最近草が生えてます

釣り

ボーズが続いて、最近お休みです

治療への思い

歯科医を志した理由

歯医者になったいきさつですが、よく聞かれます。
私は実家が専業農家だったので、家業を継いだのではありません。

母親は私に跡(農業)を継いで欲しかったみたいです。
高校のときは医療系に進みたいという希望はありましたが漠然としていました。

16歳の時父親が突然逝ってしまった後、当然現実に引き戻されました。一番の働き手の父がいない。妹はまだ小学生。

すると生活の問題が出てきました。母親一人では農業はできません。そのため大学進学を断念。高校卒業後農業を継ぐことになりました。

春から田んぼの水張り、田植え、田んぼの草取り、みかんの消毒、イチゴの苗を植える。稲刈り、みかんの収穫。イチゴハウスのビニールかけ。イチゴの収穫と1年間無我夢中で農作業をしました。

収穫の喜びは確かにありました。が、私の本意は農業ではなかったのです。
このままでは自分にうそをついて一生を終えることになる。何のための人生か?19歳の岐路でした。

母親と本音で話し合い、1年間の猶予をもらって予備校生になりました。狙いは実家から近い、学費のかからないところ。自然と志望は長崎大学です。1年しか猶予が無かったので後がなく、結果として安全圏の歯学部を受験し、合格しました。思いがけなくも入学式では新入生を代表して挨拶をさせていただきましたが、それもいい思い出です。

こういう理由から歯学部に入学しましたが、歯科医業は、細かい仕事で忍耐強く、そして患者様と楽しくコミュニケーションをとりながらする仕事でしたので、結果として歯科医業は私にとって天職と思えるものでした。今は患者様の健康を守るための歯科医療を行っている。 『歯は健康の窓口』をキャチフレーズに楽しく、やりがいを持って診療させていただいてます。

子供のころの思い出

私は南島原の西有家の出身です。国道から少し登った小高い場所に実家があります。
実家からは湯島(談合島)といって天草と島原の間の有明海に浮かぶ島が見えます。

湯島は天草四郎の乱(1637年)の時、キリシタン信者の代表が集まり作戦を話し合った島としてしられていて、そのため別名「談合島」と呼ばれているのだそうです。

その島を見ながら約2キロメートル位の道のりを歩いて小学校へ通っていたのです。
当時は車の通らない人だけが通れるような小道を通って通学しておりました。途中は桑畑がたくさんあって、ある時期(初夏?だったかなあ?)になると黒い色の実をつけるのです。

それがおいしいことおいしいこと。桑は葉っぱが大事(蚕のエサになる)で実など大切ではありませんから食べても誰も文句は言いません。小学校の帰り道、口のまわりを紫色に染めながら食べたことを思い出します。今では蚕も、桑の葉も知らない子供が増えているのが少し残念ですね。

20年位前に大規模な造成がなされて、景色もすっかり変わってしまったのですが、今でも桑の実の記憶があります。 (当時から食いしんぼーだったんですね)

もうひとつ歯の思い出

私の実家は専業農家でした。農作業は忙しく、両親、祖父、祖母ともに総出で朝から日が暮れるまで仕事に追われてました。

そのため現在の子供たちのように丁寧な子育てなどありません。放って育てられました。そのため虫歯もかなりできたと記憶してます。

保育園児のころだと思います。歯の突然の痛みに我慢できなくなって、祖母に見てもらったところ大きな穴が開いていたそうです。あまりの痛さにしょうがない。治療しようということで、祖母に隣町の歯医者までつれて行ってもらったのです。

結果は、泣き騒いで暴れたため治療ができませんでした。祖母と一緒にとぼとぼ帰った記憶があります。 そういう子供がいま、歯医者になって子供たちを治療してます。子供の気持ちがわかる歯医者のつもりです。

もう一つの院長コラム

ふじた歯科ができるまで

勤務医時代1

実は大学卒業20周年を迎えました。
歯科医師となって丸20年が経ちました。早いものです。

ちょうど私の卒後研修をした医療法人『恵歯会』が30周年を迎えられました。その記念に勤務医時代を振り返ってみます。
思えば恵歯会にお世話になったのが26歳から3年間。時の経つのは早いものです。私がいたころは、『恵歯会』の全盛期?(今が全盛期と怒られるかな?)で、本院、分院含めて13くらいありました。茨城県に3医院、山口県に5医院、広島県に1医院、沖縄県3医院、福島県に1医院。そしてタイはバンコクに技工所。同期の先生も10名近くいて、すごく楽しかったですね。

まず1年目の最初、4月に恵歯会OBの防府市の城島歯科に赴任しました。城島院長からは、診療のいろはを習いました。小児患者の扱い方、治療の仕方。上あごの親知らずの簡単な抜歯法。など、私の診療の原型になりました。また週に一度、防府の航空自衛隊の基地で歯科診療にも当たらせてもらいました。それも私一人きりです。歯科医になりたてのときでしたから正直不安でした。そのときの我慢強い隊員さん。ありがとうございました。

その後、1ヶ月のローテーションで、5月周東歯科センター、6月久米歯科医院、7月島田歯科医院、8月本院銀座1丁目歯科を回りました。

全ての歯科医院のスタッフがまだ若く、きらびやかなエネルギーに満ち溢れていました。銀座1丁目歯科では朝9時から夜の9時まで延々と仕事をしましたが、そのときに仕事に対する忍耐力がついたと確信しています。

当時の各医院の院長の先生方、城島院長、長濱院長、船津院長、前園院長、そしてスタッフの皆さん、本当にありがとうございました。そのときに行った、秋芳洞や、川棚温泉の瓦そば、また、鳥料理の豪快な山賊焼きなど、今でもなつかしく思い出します。

勤務医時代2

勤務医時代の1年目のことです。
4月から、8月まで山口県の徳山市(現在の周南市)で勤務しましたが、いきなり9月に異動です。

山口県から茨城県への転勤となりました。同僚で大学からの同級生のY先生と共に、茨城県の桜ヶ丘歯科センターへ赴任しました。山口県から茨城県へは私の愛車「トヨタスターレット」で約一日かけて高速道路を走破しました。これから後にもこれほどの距離を高速で運転したことはありません。

茨城県では桜が丘歯科センターと西町歯科医院をはさみ翌年の3月まで副理事長であられる山城哲郎先生のもとで修行をしました。つくばでは、それまでの伝統に習って、何も歯医者になったのにここまでの廃墟に住む必要はないのにと思えるような『鳥小屋』と呼ばれたバラック小屋に住んで、生まれて初めて部屋の中のコップの水が凍るという現象を見ることができました。

筑波山からの吹き降ろしの冷たい風は、隙間のある窓からヒューヒューと入ってきます。寒くて寒くてセーターの上にのスキーウェアーを着、その上にダウンジャケットを覆って寝たことを思い出します。でもそんな寒い夜に哲郎先生の”集合”の声がかかり、思いがけなくもすし屋や飲み屋につれていってもらい、暖かい思いをして帰ったことも多々ありました。哲郎先生ありがとうございました。

遊びでは、つくばでは、生まれて初めてスキーをしました。土曜日の夜になると大勢の同僚と待ち合わせて、哲郎先生から借りた、ランドクルーザーで新潟の越後湯沢を目指します。

スパイクタイヤを履かせたランクルでブイブイ言わせて走ります。今考えると粉塵撒き散らしですよね。
始めてみる雪国の降り積もった雪に驚き(私は生まれて26年間、長崎を離れたことがありませんでした)、初めてのスキー場でユーミンの音楽がこれほどスキーにあうのかと感激しました。(当時スキー、スキューバダイビングがトレンドで、今は大俳優の織田裕二が『彼女が水着に着がえたら』でデビューしたころです。)

かっこよくパラレルですべる人たちを尻目に、ボーゲンで転びながら滑ったものでした。5-6回位いろいろなスキー場にいきました。スキーのあとは湯沢の温泉に入って、まいたけのてんぷらを食べて帰りました。当時はまいたけは珍しかったですよね。考えてえてみたら、もう20年近くスキーをしていません。

勤務医時代3

1年目は主につくばの桜ヶ丘歯科センターで診療しました。
約7ヶ月を歯科センターにて研修を積んだことになります。

そこでは院長が山城哲郎先生、副院長は山田先生と岩本先生。先輩たちが4名くらい。そして同期が4人くらいと、かなりの数の歯科医師がいました。

厳しくも、楽しい、7ヶ月でしたね。朝早く診療所に行き、あらかじめ作った口腔模型で診療のシュミレーションをする。それを7ヶ月間毎日毎日、延々と繰り返しました。同期の先生たち全員で朝トレです。先輩達からの指導と、同期の先生達との励ましあい、そしてライバルに負けないぞという気持ち、そういう毎日が、私たちの実力を大幅に、驚異的に上昇させたと思います。

そこでいろいろな研修をしましたが、今でも記憶に残っているのが、やはり関東の患者さんたちの口腔内に関する意識の高さです。今、長崎という日本の西の果てにいると関東の患者さんたちと比較して、口腔意識はさすがに勝てません。長崎も随分高まってきたと思いますけれどね。

つくば学園都市で研究機関が多かったせいかも知れません。歯科の説明も良く聞いてくれますし、歯の材料なども必ずいい材料を選ぶ方が多かったと思います。つまり自費治療を受ける患者様の割合が大変多いのです。

後で、長崎県の県民所得を、関東地方と比較して、あまりに違う事実を知って、なるほどな、と思いました。医療に格差はつけられないとも思いますが、よりいい治療を受けたいという方には、より良い医療を提供するのも私たちの務めです。(勘違いして欲しくないので断っておきますが、保険治療でも一生懸命、精一杯の治療はしております。)

そういう自費治療に多く携わることができたのもいい経験だったと思います。

勤務医時代4

2年目は、山口県徳山市のグリーン歯科に分院長として勤務しました。
いきなり分院長です。
同期ではただ1人院長に昇格しました。

不安はありましたが、なぜか自分はできるという自信はありました。診療に関してはある程度の確信がありましたからね。その医院は歯科医師1人、歯科技工士2人、女性スタッフ5人というこじんまりした医院でした。

(でも考えると、現在それより小規模の歯科医院がほとんどです。)
この歯科医院は理事長の自宅の1階にあり。2階が理事長の自宅。3回はビリヤードや、エクササイズマシーンがあるトレーニングルームです。

歯科医師は私一人で非常に寂しい思いをしましたが、その代わり、歯科技工士のS君やO君と筋トレや、ビリヤードなど理事長といっしょにしたことを懐かしく思います。

この1年間で数多くの患者さんを診させていただき、その後の私に歯科医療に大きな方向性を持つこととなりました。というのは、1年目は、転勤が多かったせいか、1人の患者様を初診から、治癒まで診ることが少なかったのです。

1年間腰をすえることで、ひとつの診療行為がどういう結果を持たせるかがわかります。それによって症例ごとに、どうすれば患者さんにとって有用性があるか?そして満足してもらえるのか?がわかるようになりました。診療に明け暮れた1年でした。

勤務医時代5

3年目は、沖縄石垣市の山城歯科医院へ院長として赴任しました。石垣市は八重山地方にある日本最南端の市です。なんたって沖縄本島より台湾の方が近いのですから。

最初初めて石垣島を飛行機から見たとき、それは感動しました。リーフに囲まれたエメラルドの海。そして赤土の緑の島。こんなにきれいな島があるんだ!と

飛行機も当時は南西航空の小さいジェット。(石垣空港は滑走路が短く大型ジェットは離着陸できません。)着陸と同時に強烈な逆噴射をします。すごいブレーキで前のめりになります。これも初体験。逆噴射はすごい。最初は頭を前のシートにぶつけました。

(新石垣空港建設は、観光客を誘致するために長年の悲願でした。)滑走路を長くするための新空港建設は、いろいろな問題を抱えながら、空港候補地が二転、三転します。
サンゴで有名な白保の海も候補にあがっていましたが、サンゴを守るために反対運動が起こりました。他の候補地も、東京の大資本企業などが進出してきたりして、転売目的などで島の土地が異常に値上がりして、バブル状態になっていましたね。

それから20年近くたつのに、いまだに新空港はできていません。難しいですね。
赴任して早速、川平湾、白保の海、カーラ岳と島を1周しました。なんて美しい島なんだ!感動です。太陽はまだ4月なのに強烈な日差しです。私の真っ白な肌が、1週間で黒くなりました。

ちなみに石垣島では、直接肌を焼くと大変なことになります。必ず、シャツを一枚着てから焼かないといけません。また、川平湾近くのビーチでは巨大なまこが一杯です。
本当に驚きました。あちこちにサンゴがあります。また、魚はカラフルな色がついてます。イソギンチャクとクマノミ。美しい。

早速シュノーケリングでもぐってみます。水深の浅いとこでも十分楽しい。
スキューバダイビングのライセンスを取ろうと決めました。

勤務医時代6

石垣島の思い出は、楽しいことばかりでした。スタッフの直子姉さんと孫さん、宮城さんたちなど優しい人たちに囲まれ、かっと照りつける太陽と、エメラルドの珊瑚礁と、さんしんの音に酔いしれた1年でした。泡盛も島独特の飲み会でやるオツーリも今思えば懐かしいですね。当時は飲めない酒に、恐れおののいていました。

石垣島では、毎週ダイビングに明け暮れ、50本くらい潜ったことを思い出します。
ダイビングショップ『T&M』の原さんお世話になりました。あの毎週乗っていた豪華なクルーザーとても今では乗れません。原さんの店でダイビングライセンスを取り、小浜島、西表島、竹富島いろいろ行って潜りました。

クマノミ、グルクン、アオブダイきれいでした。ヨナラ水道のマンタ、雄大でした。懐かしいです。でもダイビングも、長崎帰ってきてからはそれっきりです。あのウエットスーツは全く入らなくなりました。体型が大きく変わったからです(涙)。
西表島はダイビングしなくても魅力的な島です。残念ながら西表ヤマネコには遭遇しませんでしたが、マングローブの茂った川、ジャングルなど秘境を満喫できます。癒しにもなりますね。

ゴルフも良くやりました。石垣島ゴルフクラブ。日本最南端のゴルフ場です。
コースからリーフが見えます。美しくて、なおかつタフなコースです。すばらしいコースでした。

石垣島の山城歯科の特徴は、石垣島以外の離島(竹富島、小浜島、波照間島、西表島、黒島、与那国島)から歯の治療のために船、飛行機に乗って、やってきます。当然、やれるところは少ない回数で治療して欲しいと患者さんが希望します。

そのため、一度にたくさんの歯を同時に治療するという特殊な治療も経験しました。
このときの経験も今の診療に生きています。現在、私の医院でも、他県とか、離島から治療に患者様が来院されますので、なるべく少ない回数で、できる限り患者様の希望を聞くように心がけています。